なぜなぜ問答を読む

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一心一向とは、どんなことか

『御文章』にしばしば、「一心一向に弥陀たのめ」とか、「一向一心になりて」とありますが、一心一向とは、どのようなことでしょうか。

 あなたのお尋ねは、弥陀の救いを求める私たちにとって、もっとも大切なことです。

 親鸞聖人は、往生の肝腑、自宗の骨目といわれ、蓮如上人は、分かりやすい例えまであげて教えておられます。

『御文章』には、

一心一向というは、阿弥陀仏に於て、二仏を并べざる意なり。この故に、人間に於ても、まず主をば一人ならではたのまぬ道理なり。されば外典の語に云わく、「忠臣は二君につかえず、貞女は二夫をならべず」といえり  (『御文章』2帖目9通)

一心一向というは、阿弥陀仏と他の仏を並べて、フラフラしないことである。世間でも主人というのは1人でないか。

外典にも、忠義な家臣は2人の主君に仕えない。貞淑な女性は2人の主人を持たないといわれている。

 真の仏法者は、弥陀一仏に一心一向であり、他の諸仏・菩薩・諸神にかける心は、一切、あってはならないことを、ねんごろに教示なされています。

「忠臣は二君につかえず、貞女は二夫をならべず」という言葉は、中国の『史記』という本にあります。仏教の経典以外の書ですから蓮如上人は外典と言われています。

   その『史記』に、次のような有名な話があります。

 昔、中国の、斉という国の王様が、おごりに長じて酒色にふけって大事な政治を怠っているのを嘆いて、王蠋という忠義な大臣がたびたび王に諫言しましたが、いつも馬耳東風で聞き入れてはもらえなかったのです。

 そこで王蠋は、身の不徳を嘆いて一切の役職を辞退して、画邑という所へ隠居してしまいました。

 王蠋のいなくなった斉の国は、崩壊を待つばかりの状態であったので、隣国の燕王が今がチャンスと、楽毅という人を総大将にして斉の国に攻め込んできたのです。王蠋のいない斉は、ひとたまりもなく壊滅しました。

 そのとき、燕の大将・楽毅は、かねてから王蠋の賢徳と手腕を高く評価していましたので、燕の高官に迎えたいと、幾度も礼を厚くして勧誘しましたが、王蠋は頑として応じようとしませんでした。

 それでも楽毅が諦めなかったので、最後に王蠋は、楽毅の使者に「忠臣は二君につかえず、貞女は二夫をならべず」と記した書を渡し、庭先の松に縄をかけ自ら縊れて死んだとあります。

 蓮如上人は、この『史記』のことを思い出されて、

「わずか娑婆一世の主従でさえ、忠臣は二君に仕えずと心の潔白を顕して死んでいるのだ。ましていわんや、未来永劫の魂の救いを求めている者が、二仏をならべていて、どうして一大事の解決ができようか。私たちの後生の一大事を救うことのできるのは、本師本仏の阿弥陀仏しかないのだから、弥陀一仏に一心一向になれよ」

とお諭しになっているのです。

 もちろんこれは、釈尊の教えの結論である「一向専念 無量寿仏」の教えです。

 これを『御伝鈔』には、

一向専念の義は、往生の肝腑、自宗の骨目なり(御伝鈔)

往生の一大事は、弥陀を一向専念するか、否かで決まるのだ。ゆえに、「一向専念 無量寿仏」より大事な教えはないのである。

と言われています。

今の行者、錯って脇士(観音・勢至)につかうることなかれ、ただちに本仏をあおぐべし(御伝鈔)

弥陀の救いを求める者は、誤って観音や勢至に仕えてはならない。一心一向に本仏の弥陀をたのむのだ。

聖道・外道におもむきて余行を修し余仏を念ず、吉日・良辰をえらび、占相・祭祀をこのむものなり、これは外道なり、これらはひとえに自力をたのむものなり (一念多念証文)               

聖道仏教の寺院や外道の施設に行って、手を合わせたり賽銭投げたり、日の善し悪しを論じたり、占いや祭りごとをやっているのは外道である。これはみな、自力を頼りにしているものである。

 後生の一大事の救いには、諸仏や菩薩の力も及ばないし、余行・余善も間にあわないから、それら一切を捨てて、弥陀に一向専念せよと聖人は教えられています。

 親鸞聖人の教えが、余りにも弥陀一仏を専念せよと強烈だったので、世間の人々は浄土真宗を一向宗とまでいうようになったのです。

 江戸中期の有名な儒者に、太宰春台という人があります。この人の著書に、当時の浄土真宗の人たちのことを、次のように伝えています。

「一向宗の門徒は、弥陀一仏を信ずること専にして、他の仏神を信ぜず、如何なる事ありても、祈祷などすること無く、病苦ありても呪術・符水を用いず、愚なる小民・婦女・奴婢の類まで、皆然なり、これ親鸞氏の教の力なり」と驚嘆しています。

 これらの証言などによっても、親鸞聖人を祖師とする浄土真宗の人たちは、一切の迷信の行為をしなかっただけではなく、阿弥陀仏以外の、仏や神に礼拝したり信ずることは絶対しなかったことが分かります。

 

『親鸞聖人の花びら』桜の巻より)