なぜなぜ問答を読む

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浄土真宗の掟とは、どんなことか

蓮如上人は「領解文」の最後などにも「この上は定めおかせらるる御掟、一期をかぎり守り申すべく候」とおっしゃっていますが、浄土真宗の「おきて」とは、どんなことでしょうか。

 あなたのような質問はよく頂きます。それだけ『御文章』に親しんでいられる人が多いということで結構なことですが、この掟は今日、浄土真宗の発展の障害になっていることを悲しまざるをえません。

「掟」とは、守るべき規則という意味ですが『御文章』を通読されればお分かりのように、至る所に、

「他宗他門の人には沙汰すべからず」とか、

「内心に他力の信心を深くたくわえて、外相にあらわすべからず」

「諸法諸宗ともに、これを誹謗すべからず」

「神社をかろしむることあるべからず」

「守護地頭を疎略にすべからず」

と言われています。

 これらの掟を真宗の人たちは、ご都合主義に受け取り、自分さえ喜んでおればよいのだと、仏教で最も嫌われる我利我利亡者になり下がっています。

 確かに『御文章』には、そのように誤解されても仕方のないところがありますが、これは当時の浄土真宗をとりまく、時代背景を知らないからです。

 蓮如上人当時は、真宗に対する世間の風当たりは猛烈を極めました。

 蓮如上人や真宗門徒に対する迫害の激しかったことは、興福寺にある記録を見ても明らかです。

 

 蓮如上人は何回も寺を焼き打ちされています。六方衆という真宗にウラミを持つ他宗の暴徒たちが、真宗門徒の家を破壊して主人を呼び出し拷問しています。

 今日は何軒壊したというふうに記録されているほどで、今日、想像もできぬ乱暴狼藉が門徒の人たちに加えられていたのです。

 そこで蓮如上人はやむをえず、一時、あのような掟を作って、門徒の人々の生活を守らなければならなかったという事情があったのです。

 

 こんな時代背景を知らないで『御文章』を読むと“生命をかけても仏法を伝えよ”と教えられた釈尊や、親鸞聖人の御意に反するように思われるのです。

 親鸞聖人は、

他力の信をえん人は

仏恩報ぜんためにとて

如来二種の廻向を

十方に等しくひろむべし(正像末和讃)

阿弥陀仏に救われた人は、その広大な仏恩に報いるために、賜った二つの宝を、すべての人にお伝えしなければならない。

と仰せられ、

如来大悲の恩徳は

を粉にしても報ずべし

師主知識の恩徳も

骨を砕きても謝すべし(正像末和讃)

阿弥陀如来の高恩と、その本願を伝えたもうた恩師(師主知識)の深恩は、身を粉にしても、骨を砕きても済まないのだ。

と、微塵の報謝もできない身を嘆かれています。

『唯信鈔文意』などには、こう記されています。

田舎の人々の、文字の意も知らず、あさましき愚痴きわまりなき故に、やすく心得させんとて、同じことをたびたびとりかえしとりかえし書きつけたり。心あらん人は、おかしく思うべし。あざけりをなすべし。然れども、大方の謗りをかえりみず、一筋に、愚かなるものを心得やすからんとて記せるなり(唯信鈔文意)

あまり文字の読めない田舎の人たちにも、なんとか分かってもらいたいと、同じことを繰り返し、重ねて書いたのである。 教養のある人が見れば、おかしく思うだろう。

あざける人もあろうが、どんな謗りも甘んじて受けよう。ただひたすらに、誰にでも分かるように伝えたい一心で記したのである。

と、止むにやまれぬ正法宣布の熱い心情を述べていられます。

 これが聖人の他力信心の躍動なのです。

 それは蓮如上人も同じです。

まことに一人なりとも信をとるべきならば身を捨てよ(御一代記聞書)

一人でもよい。仏法を聞く人があれば、どんな事情も後回しにして、命を捨てても伝えなければならぬ。

と、必死の布教を勧められています。

 今日は『御文章』にあるような掟は、全く必要ありませんが、親鸞聖人や蓮如上人のように、身命を賭して正法弘通に邁進することこそが、私たちの死守しなければならない浄土真宗の変わらざる掟というべきでありましょう。

 

『親鸞聖人の花びら』桜の巻より)