なぜなぜ問答を読む

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神社に参ってもよいのではないか

ある本に「親鸞聖人が、たびたび神社へ参詣された」と書いてありましたが、我々も神社に参ってもよいのではありませんか。

 親鸞聖人の伝説についての真偽正邪は、聖人の書かれたお聖教に合うか、どうかによって決定されなければなりません。

 親鸞聖人の時代には、神社といいましても実社といわれるものと、権社といわれるものがありました。

 実社といいますのは、死んだ人間や畜生の霊を、神として祀っている神社をいいます。現今の日本の神社は、みな、この実社に当たります。

 仏教では、このような死んだ人間や畜生の霊を神としているものを、鬼神とか、邪神と説かれ『諸神本懐集』には、これらを拝んだり供養すれば、五百生の蛇身を受け、現世に福報は更に来たらずして、後生は必ず三悪道に堕すると説かれています。

 ゆえに親鸞聖人は、

かなしきかなやこのごろの 和国の道俗みなともに 仏教の威儀をもととして 天地の鬼神を尊敬す(悲歎述懐和讃)

なんと悲しいことか。現今の日本の僧侶も在家の者も、外見は仏教を信じているように装っているが、内心は、みな鬼神に仕えている。

外道梵士尼乾志に こころはかわらぬものとして 如来の法衣をつねにきて 一切鬼神をあがむめり(悲歎述懐和讃)

手には数珠をかけ身には袈裟を着て、仏法者らしく振る舞っているけれども、心は外道と変わらず、みな、鬼神を崇めている。

 と嘆いておられます。

 そんな親鸞聖人が、鬼神や邪神をまつる実社へ参拝される道理がありません。

 次に当時、権社といわれる神社がありました。

 権社といいますのは、仏や菩薩が私たちを救うために、権に神として現れているといわれていたものを、まつっていた神社をいいます。

 本書に出てくるものでいえば、「熊野の権現」とか「箱根の権現」などです。

 親鸞聖人が、「おろそかにするな」とか「軽しむべからず」「念仏の人を護るなり」と言われたのは、この権社の神を言われたものです。

 この権社といわれたものは、明治元年の神仏分離の法令によって根絶されて、現在は、どこにも存在していません。

 当時の文献を見ますと、神と仏を分離し、権社を根絶させるために役人を各地に巡回させ、「神明あらため」といって神社の神体といわれるものを逐一検閲して、仏教関係の神体である仏像はもちろん、仏教に関わる器具名称までも神社より除去させています。

 今日まれに、梵鐘や仏具などがある神社が残っていますのは、当時の調査もれです。

 それは都道府県庁等にある神明帳に、いずれも先祖の名が祭神として明記されていることによっても明らかなことです。

 このような実態を知れば、今日、浄土真宗の人たちが参詣してもよい神社は、どこにもないことがハッキリいたしましょう。

 

『親鸞聖人の花びら』桜の巻より)