なぜなぜ問答を読む

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親鸞聖人と死んだら極楽

浄土真宗の布教使などの話を聞いていますと、どんな人でもただ念仏さえ称えていれば、死んだら極楽へ往けるように教えられますが、親鸞聖人は、本当にそんな簡単に極楽へ往けると教えられたのでしょうか。

 あなたのおっしゃる通り、どんな人でも念仏さえ称えていれば、死ねば簡単に極楽へ往って仏になれるのが、浄土真宗のように教えられています。そのために世間では、死んだ人をみんな仏といって何の不審も抱きません。
 しかし、これは浄土真宗でもなければ、仏教でもありません。
 仏教を説かれた釈尊は、唯一の真実経『大無量寿経』の中に、「易往而無人」と教えられていることでも、それは明らかです。
「易往而無人」とは、「往き易くして人無し」ということです。これは、釈尊が阿弥陀仏の浄土往生のことを説かれてから、「阿弥陀仏の極楽浄土へは、往き易いけれども、往っている人が無い」と、一見、おかしなことと思われることをおっしゃっています。
 なぜ、おかしいかといいますと、極楽浄土へ往くことが易しいのならば、極楽へ往っている人が無いと言われることがおかしいでしょう。極楽浄土へ往っている人が無いと言われるのが本当なら、往き易い極楽だと言われるのはおかしいことになります。
 この釈尊のお言葉について、親鸞聖人は『尊号真像銘文』に、こう解説されています。

「易往而無人」というは、「易往」はゆきやすしとなり、本願力に乗ずれば本願の実報土に生まるること疑いなければ往き易きなり。「無人」というは、ひとなしという、ひとなしというは、真実信心の人はありがたき故に実報土に生まるる人稀なりとなり(尊号真像銘文)
阿弥陀仏の極楽へは「往き易い」と釈尊が言われているのは、いま阿弥陀仏に救われている人のことである。そんな人は、弥陀のひとり働きで往く世界が極楽だから、「易い」という言葉もいらぬ易さである。
「人なし」と言われたのは、現在、阿弥陀仏の救いに値っている人が稀だから、極楽に往く人は稀なのである。

 蓮如上人は、これを、

これによりて、『大経』には「易往而無人」とこれを説かれたり。この文の意は、「安心を取りて弥陀を一向にたのめば浄土へは参り易けれども、信心をとる人稀なれば浄土へは往き易くして人なし」と言えるは、この経文の意なり(『御文章』2帖)
平生に、弥陀に救い摂られた人は、極楽浄土へは「往き易い」けれども、今、救われている人が少ないので、釈尊は「往き易くして人なし」と言われているのである。

 親鸞聖人も蓮如上人も、「阿弥陀仏の極楽浄土へ往き易いのは、真実信心を獲ている人のことである。その真実の信心を獲ている人(阿弥陀仏に救われている人)がはなはだ稀だから、極楽へ往っている人が少ないのだ」と、釈尊がおっしゃっていることを明らかにされています。
 誰でも彼でもが、死にさえすれば極楽へ往けるのではないのです。

 存覚上人も、次のように教えておられます。

ひとなしというは、よくおしうる人もなく、よくきく人もなきなり(浄土見聞集)
釈尊が、弥陀の極楽へ「往く人が少ない」と言われているのは、平生の弥陀の救いを教える人もなく、いま救われた人も稀だからである。

 平生の弥陀の救いを教える知識もいないし、真剣に聞き抜く人もいないから、極楽へ往く人は、雨夜の星なのであると道破されています。
 浄土真宗は、平生業成、現生不退、報土往生、弥陀同体と、現当二世の幸福をうる勝法でありますが、その真実の教えが説かれず、無力になり、やりっぱなしが他力のように話されています。
 これでは、平生の弥陀の救いなど夢のまた夢で、この世から地獄です。平生に弥陀の不可思議の願力によって、この世の地獄が不思議と光明の広海に転じなければ、死んで極楽へ往くことも、仏になることもできないのです。

『親鸞聖人の花びら』桜の巻より)