なぜなぜ問答を読む

なぜなぜ問答を読む

欲しい物が手に入れば本望

人間は欲しい物を手に入れて、やりたいことを思う存分やって死ねれば本望ではないでしょうか。

「人生、ちょっとカッコつけると楽しいよ」。なんのことかと思ったら自動車メーカーのCMです。「24時間戦えますか」が、強壮剤。「スプーン1杯で驚きの白さに」が、洗剤。「なめたらあかん~なめたらあかん~人生なめずに、これなめて~」が、のど飴の宣伝です。

 あれも欲しい、これも欲しいと、つねに消費欲をかき立てられます。これでも買わぬか、これでもかと訴える、商魂のたくましさにウツツを抜かしていると、ますますお金が欲しくなります。

 金のほかに、人間の幸福がないように思うのも無理はありません。そこで金、金、金と、日夜アクセク働くのでしょう。

 確かに、生活に大切なことに違いありませんが、これらの物が十分に調い、経済的な安定が得られさえしたら、人間は本当に満足し幸福になれるのでしょうか。

 あなたの言われるように思う存分、なんでも手に入れれば、悔いのない人生を送れるのでしょうか。

 功成り名遂げた太閤秀吉は、大坂城内に黄金の茶室を造り、天下の名器、珍宝を集め、美女をはべらせ威勢を張っていましたが、聚楽第の湯殿や便所にまで、隠し堀を引いて舟を浮かべ、いつ襲われても脱出できるようにしていたといいます。

 少年時代の秀吉は、裸でどこにでも寝ころんで平気でしたが、権力を握り天下を取ると、得意の絶頂でありながら内心は戦々恐々としていたのです。

「露とおち 露と消えにし 我が身かな 難波のことも 夢のまた夢」

 彼の辞世は、人間の生きる目的はほかにある明証でしょう。

 金持ちである、財産がある、地位がある、健康だ、名声が高い、豪壮な邸宅に住んでいるという事実は、絶えず変化します。大きく変化するか、少しずつ変わるかの違いだけで、この世に変化しないものは何一つありません。すべてが、次の瞬間には崩壊につながっているのです。

 このような、虚構の上にアグラをかき、そこに安住を求め幸福を築こうとしても、所詮、浦島太郎の龍宮城の幸福でしかありません。

 乙姫さまの寵愛を受け、百味のご馳走に満腹し、舞妓の饗宴に日夜、歓楽を尽くしましたが、やがて玉手箱を開くと、そこにあったものは、漠々たる荒野の中に、ただ独り方角も分からず、泣き崩れるよりない浦島太郎でした。すべての人類に、玉手箱は今すでに開いています。

人間はただ電光・朝露の夢・幻の間の楽しみぞかし。たといまた栄華・栄耀に耽りて思うさまの事なりというとも、それはただ五十年乃至百年のうちの事なり。

もし只今も無常の風きたりて誘いなば、いかなる病苦にあいてか空しくなりなんや。

まことに死せんときは、予てたのみおきつる妻子も財宝も、わが身には一つも相添うことあるべからず。されば死出の山路のすえ、三塗の大河をば、唯一人こそ行きなんずれ(蓮如上人)
人生は、ただ一瞬の稲光り、朝露のようにはかないものである。楽しみといっても夢幻でしかない。

たとえ栄華栄耀を極めて思い通りになっても、せいぜい50年100年のことにすぎないではないか。

もし今、無常の風に誘われたならば、ひとたまりもないのである。いよいよこの世の別れとなれば、かねてから、頼りにしていた妻子も財宝も、何ひとつあて力になるものはない。みんな剥ぎ取られて、独りでこの世を去らねばならぬのである。

 人は、百味のご馳走、金や財、名誉、地位、享楽などの夢を追い、夢に酔うことを幸福と信じ、必ず、開かなければならない玉手箱を知りません。活眼を開いて人生を達観しようではありませんか。

 

『親鸞聖人の花びら』桜の巻より)