なぜなぜ問答を読む

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因果の道理と親鸞聖人の教え

親鸞聖人の教えは、仏教以外にないとお聞きします。その仏教の根幹は「因果の道理」といわれますが、どんな教えでしょうか。

 仏教を、木にたとえますと「因果の道理」は、その根や幹に当たります。
 釈尊の七千余巻の一切経を貫く教えが「因果の道理」ですから、「因果の道理」をよく理解しなければ仏教は分かりませんし、親鸞聖人の教えも分かりません。
 では、因果の道理とは、どんな教えかといいますと、まず「因果」とは、「原因」と「結果」ということです。
 どんなことにも、必ず原因があり、原因なしに起きる結果は、万に一つ、億に一つも無いと教えられるのが仏教です。しかもこれには絶対に、仏教は例外を認めません。
 どうしても現状では、原因が分からないということはあります。たとえば、飛行機が深海に沈んだために、墜落の原因究明ができず、知ることができないということはあるでしょう。
 しかしそれは、墜落した原因が「ない」ということではありません。乱気流に巻き込まれたとか、エンジン故障とか、操縦ミスとか、必ず、原因があって墜落という結果が起きたのです。原因なしに墜落という結果は絶対にないのです。
 どんな小さな結果にも、必ず、それ相当の原因があると教えるのが仏教です。
 次に、「道理」といいますのは「三世十方を貫くもの」をいいます。「三世十方」とは、過去世・現在世・未来世の三世と、東・西・南・北・上・下・四維の十方のことで、「いつでも」「どこでも」ということです。
 いつでも、どこでも変わらないものだけを、仏教では道理といいます。
「因果の道理」とは、三世十方変わらぬものは、原因なしに起きる結果は絶対にないし、結果には、必ず原因があるということです。
 もっと、正確にいいますと「因・縁・果の道理」といいます。
 それは、すべての「果」は、「因」だけで起きるのではなく、「因」と和合する「縁」が必要だと説かれているからです。
 たとえば、「米」という「果」は、モミダネという「因」だけではできません。モミダネという「因」と、土壌や水分、日光や空気などの「縁」が和合して生じます。コンクリートや氷の上に、モミダネを蒔いても米はできません。「米」となる「縁」がないからです。
 このように、すべての「果」は、「因」と「縁」が和合して生じると教えられるのが、仏教の「因果の道理」ですから、正しくは「因縁果の道理」ということです。
 特に、仏教が因果の道理で明らかにされているのは、私たちが最も知りたい、人の運命の原因と結果の関係です。それを釈尊は「善因善果、悪因悪果、自因自果」と教えられています。
「善因善果」とは、善い因(行為)は、善い果(幸福や楽しみ)を生み出すということです。
「悪因悪果」とは、悪い因(行為)は、悪い果(不幸や苦しみ)を引き起こすということです。
「自因自果」とは、自分に現れる善果も悪果も、すべて自分のまいた因(行為)によるものですから、自分が刈り取らなければならないのは当然ということです。
 幸福も不幸も、自分の運命のすべては、自分の行為が生み出したものであり、絶対に、それに例外を認めないのが仏教です。他人のまいた因が、自分に果として現れるという「他因自果」ということもなければ、自分のまいた因が、他人に果として現れるという「自因他果」も、絶対にないと教えるのが仏教の自因自果の教えです。
 この「因果の道理」が、仏教の根幹の教えですから、「因果の道理」が分からないと、親鸞聖人の教えは、全く分かりませんから、よく知っておいてください。

『親鸞聖人の花びら』桜の巻より)